半世紀を振り返って
弥三郎窯として開窯
昭和31年 平凡社の創設者下中弥三郎翁が鎌倉山の画家中野一水の窯を譲り受け、「鎌倉山弥三郎窯」とし、その窯に松島家二代宏明を職長として招いた。
昭和34年 「世界大百科事典」全32巻の完成を機に、翁は社長を後代に譲り焼き物に時間を割けるようにした。横浜市戸塚区平戸町朝日山に窯を移し、「朝日山弥三郎窯」とし松島を責任者に迎えた。

翁は週に一、二度出向いて陶芸を楽しむようになる。翁が窯に来る日には、有名人や著名人が集まってきて、用意された器に絵付をして楽しむ陶芸サロンになった。武者小路実篤をはじめ、俳優から画家まで入れ替わり立ち替わり実に大勢の会員がいた。これらの有名人が絵付をした焼物展も開催する。
昭和35年 日本橋三越にて「やさぶろがま はつがまてん」を開催し百数十点を展観した。
昭和34年12月21日北大路魯山人先生、昭和36年2月21日下中弥三郎翁が逝去。わずか1年2か月の間に二つの巨大な陽が落ちた。
昭和38年 日本橋三越にて『心』同人陶芸展を開催。武者小路実篤氏をはじめ、安倍能成、井伏鱒二、大内兵衛、奥村土牛、川田順、窪田空穂、熊谷守一、小宮豊隆、佐藤春夫、里見弴、瀧井孝作、谷川徹三、中川一政、前田青邨氏らが、弥三郎窯に集って大皿、花瓶などに絵付けして出品し盛況であった。
その後この陶芸展は昭和42年、44年、46年にも開催され好評を博した。
昭和47年 松島家三代芳が平凡社募集の陶芸愛好家のために陶芸教室を開講する。
昭和57年 松島家二代宏明逝去。三代芳が弥三郎窯の責任者となる。
一瓶窯と改称
平成15年 弥三郎窯を移築。松島家の号「一瓶」に因み窯名を「一瓶窯(いっぺいがま)」に改称。
平成16年 松島家三代芳が長年にわたり挑んできた東洋陶芸の最高である、青磁、鈞窯。その鈞窯研究の集大成として、鎌倉のカマクラコーゲイにて『鈞窯の美 松島芳作陶展』を開催。しかしその翌年1月急逝。松島家の希望により、一瓶窯は直弟子斉藤政信が中心となり生徒を指導する形で運営継続、現在に至る。
下中弥三郎(1878~1961)
兵庫県多紀郡出身。平凡社創業者、出版実業家、教育家。
「日本書籍出版協会」初代会長、平和運動「世界連邦建設同盟」理事長、湯川秀樹氏らと「世界平和アピール七人委員会」結成 他。
丹波にて家業を継ぎ陶工に従事、16歳で横座(監督指導者)となる。その後、天賦の才と目的意識の明確さから教育界に入って国語教育指導者になり、平凡社を創設し事典の平凡社として確固たる礎を築く。一方平和運動「世界連邦建設同盟」の理事長として欧亜諸国を回り、交友は各国首相、元首にまで及んだ。
北大路魯山人(1883~1959)
京都市出身。芸術家、篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家として活躍。
赤坂「星岡茶寮」顧問兼料理長、北鎌倉「魯山人窯芸研究所星岡窯」開設、銀座「火土火土美房」開設、ニューヨーク近代美術館など欧米の美術館で展覧会・講演会開催 他。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア』http://ja.wikipedia.org
「魯山人と影の名工」佳川文乃緒(1990)
「陶芸家松島芳追悼集」松島家(2006)
魯山人(左)と松島宏明
松島家三代の陶業 -陶造りの本道を歩んだ先覚者-
松島小太郎(1872~1945。初代) 金沢工業学校窯業科教員を経て、九谷焼の陶芸家・初代須田青華等に推され北大路魯山人が計画する北鎌倉の星岡窯築窯に陶工として参加。その後高松窯業試験場に指導員として赴任。晩年は故郷石川県若杉町に戻り陶業に専心。
松島宏明(1898~1982。二代) 金沢工業試験場、北海道立工業試験場勤務を経て、父小太郎より魯山人星岡窯に招聘される。その後30年にわたり魯山人の片腕として土、成形、釉薬、窯焚き、窯の運営責任を担う。星岡窯退職後、鎌倉山の中野一水窯を経て、下中弥三郎翁より弥三郎窯の責任者として招聘される。元神奈川県陶芸作家協会会長。
松島芳(1944~2005。三代) 横浜国立大学工学部を中退し弥三郎窯にて父宏明に師事。陶芸作家としてほぼ毎年銀座にて個展を開催。長年の鈞窯釉研究の集大成として、鎌倉にて『鈞窯の美 松島芳作陶展』を開催。40年にわたり陶芸教室の主宰としても活動。

